Oct 09, 2010

部屋に必要な電動リクライニングソファ

足の両方リクライニングソファが家にあればTVを見る時も快適です。最近は電動でリクライニングのソファにも買いやすい価格なっています。の横にあるリモコンでリクライニングができるので、非常に楽です。リクライニング時の音も静かになっています。ソファの隣にリモコンを収納できるサイドポケットをお持ちのタイプもあります。
ベッドを買うとき、デザインを最初に決定していたので長年使用している間に圧力がかかるのは、へこみになってしまい、結局は寝心地が悪くて何度も根がえりを打っていました。そのため、朝起きてもすっきりしません。寝て疲れて感じるようになってしまい、硬い強度のあるスプリングのベッドに交換をし、寝心地抜群です。
【萌える日本史講座】

 都の大がかりな工事を「狂心(たぶれごころ)」とそしられるなど、天皇らしからぬエピソードをもつ飛鳥時代の女帝・斉明(さいめい)天皇(594〜661年)。土木工事好きは、「人間ブルドーザー」といわれた故・田中角栄元首相にも重なってみえる。その女帝の墓とほぼ確定したのが、奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳。さらにすぐ前から石室が発見され、20代で早世した孫娘・大田皇女(おおたのひめみこ)の墓として話題を集めた。豪腕の女帝と悲運のプリンセス−。寄り添うように葬られた姿は、はからずも2人の運命をあぶり出した。(地方部 小畑三秋、奈良支局 川西健士郎)

 ■知名度急上昇

 飛鳥時代の女帝といえば、聖徳太子とともに政治を担った推古天皇や、藤原京を開いた持統天皇が有名。それに比べて斉明天皇は、天智、天武両天皇の母という以外、知名度は今ひとつだった。

 歴史教科書でもそれほどなじみのない女帝がいま、一躍スポットを浴びている。牽牛子塚古墳の墳丘周囲の発掘調査で八角形状の石列が出土。天皇クラスの墓に限定された八角形墳と判明し、斉明天皇の墓であることがほぼ確実となったためだ。

 同古墳は過去の調査で、娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)と合葬したという日本書紀の記述を裏付けるように、石室が2部屋に分かれていることが判明。出土した棺も、漆と絹や麻布を重ね合わせた最高級の夾紵棺(きょうちょかん)だったことが分かっており、今回の発掘でダメを押した。

 ■君臨

 日本書紀をひもとくと、斉明天皇に関するエピソードはあまりにも多い。

 古代史最大のクーデター、大化の改新のきっかけとなった乙巳(いっし)の変(645年)で天皇を退いたものの、10年後に再び即位。名前も、最初は皇極、2度目は斉明に変え、巨大な権力を握った。

 ただし、皇極天皇としての実績は極めて地味だったようだ。

 乙巳の変で、息子の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)=のちの天智天皇=がライバル・蘇我入鹿(そがのいるか)を斬殺した際、女帝はまさにその場にいた。

 「私に何の罪があるというのか」。蘇我入鹿が声を振り絞って懸命にしがみつこうとするのをよそに、「いったいなにごとか」と一言発しただけで御簾(みす)の奥に去っていった。

 和田萃(あつむ)京都教育大名誉教授(古代史)は「皇極天皇の目立った成果といえば、雨ごいぐらいではないか」というほど。「蘇我入鹿に権力を握られ、あまりパッとしなかった」と指摘する。

 しかし、斉明として再び天皇になってからは、国内外の情勢に機敏に対応した政策を次々に打ち出した。当時の首都だった飛鳥(明日香村)整備に力を尽くし、中国や朝鮮、東北などからの使者をもてなす迎賓館を設け、異国情緒あふれる石像の噴水も備えた。飛鳥を「水と石の都」に整えた。

 奈良盆地内には上(かみ)ツ道、中(なか)ツ道、下(しも)ツ道という幹線道を整備し、軍用道路に活用できるよう都を要塞化(ようさいか)したとされる。これらは中国の脅威に備えて基盤を固めようとした国家戦略だった。

 660年、友好国の朝鮮半島・百済が唐と新羅の連合軍に攻められるやいなや、援軍を派遣。66歳という高齢にもかかわらず、自ら先陣に立って福岡まで出向いたが、翌年、非業の死を遂げた。

 「天皇の背後には中大兄皇子がいたが、国を守ろうとしたすごい執念を感じる」と和田氏は話す。

 この女帝の墓については、発掘調査だけでなく、地名にもヒントが隠されていた。

 牽牛子塚古墳の立地する場所は、地元では「御前塚」と呼ばれていた。「御前会議」という言葉があるように天皇を思わせる一方、源義経の恋人・静御前のような貴人女性をもほうふつとさせる。地名の由来は定かではないが、昔の人たちは被葬者を知っていたのかもしれない。

 ■孫娘への「念」

 もう一つ注目されるのが、牽牛子塚古墳のすぐ前で石室が見つかった越塚御門(こしつかごもん)古墳。日本書紀には「皇孫(みまご)大田皇女を陵(斉明天皇陵)の前の墓に葬る」と記され、まさにその通りの発見だった。

 この皇女は、のちの天武天皇となる大海人皇子(おおあまのおうじ)の后になったわりに、不思議と日本書紀の記述は少ない。644年に生まれ、667に亡くなったともいわれ、20代前半で急逝。薄幸の人生をたどった。そのまま生きていれば皇后になっていたかもしれず、謎多きプリンセスともいえる。

 発掘調査で明らかになった両古墳の石室の距離は、わずか20メートル。野球でいえば、ピッチャーマウンドとホームベースの距離(約18メートル)より少し長い程度しかなく、終(つい)の棲家(すみか)は、まさに祖母に抱かれるような場所だった。

 「大田皇女は決して独りではなかったんですよ」。飛鳥時代をテーマにした作品を手がける漫画家、里中満智子さんはしみじみと語る。「(近くに埋葬してほしいという)斉明天皇の念のようなものを感じるんです」と話し、「大田皇女をおろそかにしてはいけないという周りの人たちの気持ちもあったのでは。(石室の発見は)大田皇女の存在の確かさが伝わってくる意味でもうれしい」と思いをはせた。

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